Content コンテンツ

梶田裕深の生い立ち物語

エリート軍人一家の長女に生まれて

父と小さい頃の私です。
生まれは自然豊かな栃木県の那須。
スポーツ万能な軍人一家の長女として生まれました。

自衛隊1期で筋金入りの軍人である祖父を筆頭に健康マニアで兄弟の中では<魔女>と噂されていた祖母。
自衛官の父、母。そして仲のよい兄弟5人という大家族でのびのび育ちました。

5人兄弟の長女であった私は小さい頃から仕切りたがり屋のお姉ちゃん。笑
強力なリーダーシップを発揮していました。
今でも妹達には「面倒見のいいお姉ちゃんではなかった」といわれます。

両親はとても教育熱心でスポーツ担当は父、勉強と芸術担当は母という分担制。

そんなこともありスポーツ競技会では常に表彰台、書道に絵画に作文コンクールなど数々の賞をいただき表彰式でいろいろな場所に出向き、画家や名だたる先生にコメントを頂くのが楽しみのひとつでした。

毎日のトレーニングと展覧会の締め切りに追われ、学校が唯一の癒しの場、というちょっと変わった学生時代を過ごしました。

そんな家庭で防衛大は自然の流れ…という見方もできるのですが。
ここはちょっとひとクセあるんです。

私が防衛大を志したのは小学校2年生。しかも当時の防衛大は全寮制で女人禁制。笑

なぜこんなことが起きるかというと祖父が原因です。
「防衛大はいいぞ~。 日本で1番の学校だ。
あそこの学校以外にいい学校はないぞ~」
と毎日のように私を洗脳していたわけなのです。

休日には航空祭や駐屯地記念祭と、自衛隊の行事には積極的に私を連れ出し<自衛隊=平和を守る>というイメージを徹底的に植え付けたのでした。

そのかいあり…笑小学校2年生で防衛大に入ると決めた私でした。

私が小学生の時に、初めて女性自衛官がPKOで海外に派遣され、防衛大学校も女性の入学受けれが開始され、
高校生になるころには、<防衛大を出て幹部自衛官になり平和を守る>という私の夢は、夢ではなく実現可能な目標に、変わっていったのでした。

そして18歳の春。
満開の桜の元、晴れて防衛大の正門をくぐったのでした。

身体の異変

訓練の様子
防衛大学校は全寮制で大学と名はつくものの、士官学校のプログラムを踏襲するような学校です。
一般の大学のプログラムに加え、戦術、戦略、統率、戦史、おまけに訓練も入るとても忙しい毎日でした。

世界でも珍しく陸海空の3自衛隊が一緒に教育を受けれる学校で(各国の士官学校は陸海空がそれぞれの教育を行うのが通例)私の青春は汗と泥にまみれていました。笑

2年目の春を迎え、生活にも慣れやっと余裕ができたころ。
身体を動かすたびに下腹部にひきつるような痛みを感じ始めました。

最初は何かの間違えかなぁ程度にしか思っていましたが、その痛みは日を追うごとにひどくなり……。
最終的には動けばうずくまるほどの痛さに。
さすがに身体を動かしてばかりの学生生活に支障をきたし、受診。

「卵巣に腫瘍があります。急いで手術を」
との医師の言葉に、誰もいない屋上で泣いたのを覚えています。

手術すれば治るのか。
それならさっさと手術して元のように元気な体に戻ろう。

病気の原因も、その病気が私に送るメッセージにも気づかず医師のすすめるままに入院し手術。2週間で学校に復帰しました。

しかし手術で全快と思った私に突き付けられた現実はそう甘くはありませんでした。
生理痛、大量の出血、原因不明の不調はなくなることはありませんでした。

絶望に打ちひしがれている私の前に、仙人のようなおじいちゃんが現れました。
「お前さん、本気で生きる覚悟はあるのかね?」

そのひとつの質問から、私の人生は思わぬ方向へ動き出したのでした。
それは自分の意志ではない大きな力に後押しされるような不思議な感覚でした。

その仙人みたいなおじいちゃんは知る人ぞ知る<食養家>だったのです。
食事で身体を整える達人で現代医療では完治不可能と宣告された方が全国から集まるようなすごいおじいちゃんでした。

出会いからすぐに先生(おじいちゃんのことです)との生活が始まりました。

21日間の半断食で1度身体を枯らせてからの再生を体験し、徹底した実践教育がスタートしました。

日中は早朝から夕方まで料理を手当てを学び、夜は先生による講義がありました。
本当に休む暇がない日々でした。

そんな多忙なスケジュールを乗り越えることができたのも食事の智恵があってこそと自負しています。

自衛官を続けながら、まとまった休みを取っては先生の所へ学びに行くそんな生活ができたのも家族や職場の理解があってこそ。

本当に感謝しています。

奇跡の自然妊娠~母としての視点~

中央のおじいちゃんが私の食の師匠。
訓練部隊で勤務と食養生の両立は本当に大変でした。
しかし、職場の協力で訓練をしながらも食養生を続け、
5度目の春に身体の異変に気が付きました。

まさかの自然妊娠でした。

私は20歳の手術の際に左の卵巣はほとんど摘出して、右の卵巣も半分以上を失いました。
生まれつき子宮が半分しかない私は、妊娠は不可能、そもそも妊娠しても育たないと
医師から言われていたのでした。

そんな私に妊娠する力があるんだ。という驚きと
妊娠することの奇跡、生まれることの奇跡をはじめて実感しました。

この命を大切にしたい。

それは1人の女性として正直な感想であり食を変えたことで運命が変わった瞬間でもあったのです。

出産ギリギリまで自衛官として勤務していた私ですがお腹が大きくなるにつれて心の中に違和感が湧き上がってきたのでした。

当時私はミサイル部隊に所属しており、訓練といえばミサイルの訓練でした。
それまで何の疑問のなく行っていた訓練でしたが「このミサイルの先に何があるんだろう?」「平和は戦うことでしか守れないのか?」
そんな思いが湧き上がり胸が締め付けられることがしばしばおこったのです。

もちろん、自衛隊の任務は専守防衛です。
しかし、1人の女性として子を育む母として率直な感情でした。

出産を機に小学校2年生から思い描いていた自衛隊という理想の職場をうしろ髪を引かれるような思いで退職。

しかしこれは終わりではなく新しいスタートでした。

小さなころに思い描いた<世界平和の夢>
それが病気と向き合い新しい命を授かるという人生のドラマの中で新しい世界平和のカタチ(世界の調和を取り戻す)へ変化する時でもあったのです。

オーガニックな子育て

お昼寝中のゆき
妊娠中は夫の実家にほど近い吉村医院に世話になりました。

これまたユニークな産院で裏庭には築300年の茅葺屋根の古民家があり妊婦さんはそこで薪割りや雑巾がけをして過ごします。
妊婦さん同士とても仲良くなり女子高生のような生活を楽しみました。

娘を無事出産して新しい生活のスタートです。

しかし生まれた娘は夜泣きはするわ、病気はするわで私はてんてこ舞い。
「こんなに子育てって大変なの?」と毎日半べそかいて過ごしました。
しかしここで役立ったのが食養の智恵でした。

病気やケガへの対処、夜泣きの改善はすべて食の智恵で乗りきしました。
かわいい自分の娘のこととなればどこまででも頑張れてしまうのが母というもの。

毎日の実践で子供に対する手当てや食養に関しては専門書以上の力がつきました。

<この子の能力を最大限に引き出すために私はどんなことができるんだろう?>

そんな思いから保育士の資格を取り米国ドーマン研究所の研修を受け、幼児体育指導を学び日々実践していました。

また食養の智恵を伝えたいという思いから、マクロビオティック料理の元祖であるリマクッキングスクールに入学、師範科まで終了しました。

子育て傍ら様々な分野で見識を深め、毎日の育児で実践していく中で食事で身体を整えるという梶田流の子育てスタイルを確立。

食事と育児をテーマに自宅で勉強会や料理教室を開催するようになりました。

そんなある初夏の日にわきの下に小さな湿疹があることに気がつきました。
この湿疹がその後3年間の私の人生を変える転機になる出来事でした。

気功との運命的な出会い

皮膚炎が悪化して表面の皮膚がはがれてしまった状態
私の魂はとてもストイックなようで…まだまだ試練は続きます。笑

わきの下にできた小さな湿疹。
私は特に気にも留めることなく後によくなるだろうと緩く構えていました。

当時はプハン(カッピング)という家庭でできるデトックスを行っていたので排毒反応が出たくらいにしか思っていませんでした。

しかし、日を追うにつれて湿疹はどんどん広がり表面もぐちゅぐちゅに膿んでしまいました。

両掌と足の裏、顔以外に広がった湿疹はもう手に負えない状況でした。

病院に行ったらステロイドを処方されるのはわかっていたので自然療法、漢方治療やオーソモレキュラー療法(別府向井病院)をしている専門家に相談しましたが全く改善されず。

私の数年間の食の智恵をもってしてもよくなることはありませんでした。

ひどいかゆみと痛みから夜は眠ることもできず、次第に悪化し常に熱がある状態で服を着るにも激痛との闘いという毎日に私はどんどん自信を失っていきました。

改善されぬまま1年、2年と時間が過ぎ、対に手立てがなくなった私が思い出したのが数年前に友人の紹介してもらった気功治療でした。
当時は怪しいものとしか思っていなかった気功治療。
しかし、こうなったら気功治療を受けるしかない。
意を決して紹介された電話番号に電話をかけたのでした。

王気功、これが私と気功の出会いです。

時期を同じくして中医学の智恵が解決の糸口になるかもしれないと本草薬膳学院に入学し本格的に薬膳と中医学を学びだしたのでした。

世の中を氣で覗いてみる

両手の中にエネルギーの光が生まれる
王気功に出会い当初は気功治療を受けながら毎日自分で気功を実践する日々がスタートしました。

気功治療というのは気功師の先生がパイプ役となって効率的によい気を通してもらう方法です。
中医学では気がすべての根源であるという思想があります。
気功師の先生はその宇宙に存在する気を自分の身体を通して気が不足しているところ(不調がある部分)に良い気を通してくれるのです。

そしてその気功は自分でも行うことができるのです。
気功は自分で自分を癒すことができる唯一の手段ともいわれています。

私達人間、動物、植物は宇宙の真氣に活かされた存在で宇宙の根源は氣であるというのが中国古代哲学の思想です。
どんな医師も食養家と呼ばれる大家もすべてがベテランの気功師であったそうです。

宇宙から等しく降り注ぐ真氣を効率的に体の中に取り入れ、効率的に回していくのが気功というわけなのです。

<自分の錬った氣で自分を癒す>
<1ポーズが処方箋>

そんな言われ方もします。
中国4000年の歴史と叡智が詰まった技、それが気功です。

治療と並行して気功を行ううちに、私の身体の中を気が流れる感覚を感じるようになりそれが呼吸とともに出たり入ったりする感覚がわかるようになり、痛みやかゆみが軽減し、温泉に入ったような心地よいぽかぽかが身体の奥底から湧き上がってくる。そんな感覚をつかめるようになりました。

皮膚炎は約1年間の気功治療と気功の実践を経て完治するまでに至ったのです。

皮膚炎が完治した後は毎日1時間半から2時間の気功を実践しています。

気功の良さや効果、私の皮膚炎の経過をブログやメルマガで配信していくうちに気功を教えてほしいです。という嬉しいコメントが増え現在は気功教室を開催しています。

と、ここまで気功のすばらしさについて病気をテーマに書いてきましたが気功の真価は実はそこではないんです。笑

入り口は病気治しだったり、健康の維持であったり、人それぞれなんですが気功が目指すところはもっともっと叡智的なものなのです。

同時期にバイオテストという手法に出会いました。
これは本当に私の人生に欠かせない手法です。

バイオテストとは自分の身体を使い、エネルギーレベルでそのものが自身の身体にあっているか否かを判断す方法です。
オーガニック、有機栽培、無農薬等の表示に振り回されない判断ができるようになります。

気功とバイオテストはとても相性がよく、私の皮膚炎の完治はこの2つの効果によるものだと確信しています。

どちらがかけても1年という短期間であれほどの重度の皮膚炎が完治するのは難しかったでしょう。

気功で経絡を通し気を充実させ、バイオテストでよいエネルギーを入れるという方法はまさに生命が喜ぶ選択だったのです。
この経験があったからこそ、健幸を考えるうえで食事という視点だけではなくエネルギーという視点で、より深く身体と向き合うことができたと思っています。

私の使命

「世界平和に貢献する」という人生の目標を掲げて私が自衛官を目指したのは小学生のときでした。

国防に携わる傍ら結婚や出産、病気や不調を経験する中で幼き日に思いをはせた<世界平和>について深く考えさせられました。

妻として、母として、そして一人の女性としての想い。
病気と向き合い、調和してきた経験から導き出した答えは<肩書や収入、社会的地位に左右されない本当の輝き(価値)を見つけるお手伝いをすることにより、世界の調和を取り戻す>という新しい概念でした。

誰もがあなたらしく輝ける世界であなたの輝きを待っている人がいます。
あなたの輝きを必要としている人がいます。
それを形にしていくお手伝い…それこそが私の輝きです。